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ガンと闘い生還した人たちの真実の記録

天仙液体験記
●4回のつらい闘病生活を乗り越えて 増田和枝
1993年、卵巣ガンのため入院し、手術と抗ガン剤の治療を行いました。その後、元気になり普通に暮らしていたのですが、2年後の1995年6月、背中の痛みと咳がひどくなり、食事も出来ない状態となりました。即刻、近くの公立病院に入院したところ、悪性リンパ腫と告げられました。

腫瘍の部位は胃の周囲のリンパ節です。6ヵ月間、抗ガン剤治療を受けましたが、この入院生活中に新聞記事で天仙液のことを知りました。記事は川越の帯津三敬病院で末期ガンの患者さんが服用しており、徐々に効果が現われてきたとの内容でした。それを読み、「ぜひ、やってみよう」と思い立ち、詳しい資料を取り寄せ、10月から飲み始めました。すでに入院中でしたので、主治医に相談したところ 、「ガンを治すという方向は同じなのだから、飲んでもかまわない」とのこと。効果に期待を賭けながら、この闘病生活を乗り切ろうと決心し、無事治療を終えました。

その後の1996年4月、追加治療のため末梢血幹細胞移植と抗ガン剤治療を行い、3ヵ月間入 院しました。もちろん、その間も天仙液は欠かしませんでした。抗ガン剤の副作用で、食欲不振、脱毛が起こるのはよく知られていますが、なんと末梢血幹細胞移柚は、医師に言わせれば「大量の抗ガン剤治療」なのだそうです。この2つの治療を受けたわけですから、当然、激しい副作用に悩まされました。特に、吐き気の連続で、まったく食事が摂れません。「ああ、私は死ぬかもしれない」という思いが何度脳裏をよぎったことか。それでも、同じ病気で治療を受けている、私よりもはるかに若い40代の人に比べて、回復は早かった のです。これには自分でも驚きました。その後、抗ガン剤の副作用による手足のしびれに悩まされましたか、一年ほど普通の生活を送ってきました。しかし、1997年8月、自覚症状がまったくないのに、なんと今度は骨盤内で腫瘍か見つかったのです。またもや入院、手術と抗ガン剤治療を受けることになりました。

治療を終え、1998年1月に退院しましたが、この時の腫瘍マーカーの値は110。主治医より、値が150になれば入院し、抗ガン剤治療を受ける必要があると言われました。退院後、2ヵ月の間にマーカーの値は上昇したので、天仙液と天仙丸の服用方法について 、王先生にアドバイスを求め、その回答に従って量を増やしました。その結果、少しずつ 低下し、5月以降は50程度で推移しました。その間、何度マーカー値の上がり下がりに一喜一憂したことでしょうか。それでも、「絶対に治る」と信じて、天仙液、天仙丸だけを頼りに生活しておりました。現在は、マーカーはまったくの正常値です。

何度も治療を経験して痛切に感じるのは、ガンと闘うには気力しかないということです。これまで入院して、たくさんのガン患者さんと知り合いになりましたが、この世に残っている人はごくわずかです。でも、それを悲観することなく闘ってきました。ですから、「クヨクヨしない」ということも大切です。運命は自分ではどうすることも出来ないのだから、その時が来たら来たでしょうがない。残された時を楽しく過ごせるように自分を変えていけばいいのです。実際、病室では、みな明るく笑っていましたし、こうしていったん開き直ってしまったところで、気力は湧いてくるものだと感じました。

抗ガン剤治療を受けるたびに吐き気や便秘に苦しみましたし、髪の毛が全部抜けてしまった私です。それでも、どうにか乗り越えられるものなのです。「あなたは気力で持っている。その気力をなくさないで欲しい」と、主治医から励ましの言葉をいただいたことかあります。本当にその通りだと実感しております。ある友人は 私に、「病と寿命は別だよ」と言ってくれました。この言葉もその通りだと思っています 。実際、私の知り合いで、何の異常もなく健康に暮らしていた人がある日突然、脳内出血で倒れ、そのまま亡くなってしまったことがありました。ガンという病気を抱えていた私のほうが、長生きをしている。これも事実なのです。

今は元気に暮らしています。先日は、主人と二人で北欧へ旅行に行ってきました。もっともっと人生を楽しみたいし、やりたいこともたくさんあります。最後まで希望を失わないこと。これがガンと闘う上でもっとも大切なことではないでしょうか。

 



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